天動説

 先ごろ、小学生高学年の4割が地球を中心に太陽がまわっていると答えているという記事が世間を驚かせた。僕もこの記事に初めて接したとき驚いたが、少し経って、それもあながち悪くはないなと思うようになった。そもそも僕を含めてたいていの大人は小さい頃教科書で習った地動説をうのみにしているにすぎない。僕の地動説の知識は、単に教科書によるもので、天体の運行を望遠鏡で調べて惑星の運行に不思議を感じて地動説のほうが天体の運行をすっきり説明できるというふうに納得していない。天体の運行を調べて地動説の裏付けをきっちり観測しているという人は一部を除いてあまりいないんじゃないかと思っている。地動説を人類が得たことにより僕の知らないところで豊かさを享受していると思うが、地動説を知らなくてもたいていの人の人生にさして変りはないだろう。

 そこで、小学生高学年の天動説支持だが、これはこれでとても面白くていいことなんじゃないかと思っている。いずれ地動説に接することは間違いないし、年をとってから知ったほうが知ったときの驚きで知的興奮を喚起させるきっかけになるんじゃないだろうか。そのことにより知ることの大切さ、喜びをちょっぴり知ることになるんではないだろうか。

 ところで僕が三十路後半この歳になるまで、他人と比べることで自分の位置をよくわからないものさしではかっていた。特にこの病気になる25歳までは競争の中に自分の身をおくしかないと思っていた。このように言うと、競争がぜんぜんダメであるという論調になりそうだがそうではない。競争も大事である。しかし一方で他人といろんなことにおいて相対的に捉え自分は「かしこい」「馬鹿だ」「いけてる」「ダメだ」と思うことは芳しくないことだと自分の道徳観で漠然と思ってきた。でも道徳観に頼ることなく理屈で「相対的に他人と比較することはあまり意味のないことだ」と思うようになってきた。要するに自分は地球の表面に偏在している人類の一員であるという捉えかたではなく、認識の主体であり、とても不思議な存在であり、死ぬとこの世界を認識することはできない、すなわち自分の生なくしては世界の存在はありえない。つまり自分は宇宙の中心にいる宇宙の一部であり相対的ではなく絶対的なものである、と。これは、偏在している一員として自分の存在を捉えるという意味での“地動説”に対して宇宙の中心にいる認識の主体として自分の存在を捉えるという意味での“天動説”である。「天上天下唯我独尊」についてだが、僕はながらくお釈迦様は何で生まれたときに自分が一番偉いんだというようなことを言ってそれが今まで名言として伝えられてきたのかよく分からなかった。最近になってようやくこれの意味するところは人間ひとりひとりがこの世で尊く絶対的な存在で存在自体が生み出す不思議なことを言っているのだというふうに解釈できるようになった。この自己の存在に関する“地動説”から“天動説”への逆コペルニクス的転回はできるだけ若いころに起こればいいだろうが、僕の経験ではそうもいかないかなと思う(頭のいい人は知らないが)。やはり自分を客観的に捉えるというか、他人の目を気にして、自分の他人に対する相対的位置をある程度見極める経験を経ないとあまりこの逆コペルニクス的転回はあまり意味をなさないかなと勝手に思っている。じゃないと「自己中」という言葉に代表されるような勘違いがまかり通るような気がする。

 自分の絶対的存在を感じることができれば、知への欲求への質も変るような気がこのごろしている。いままでは「こんなことは知らなければ恥ずかしい」「これは知っておくとかっこいい」というような動機で知識というものを捉えていたが、だんだん「知りたい」「感じたい」「やってみたい」というように自分がかわってきたように思う。

 今の教育というのは、試験に合格することが手段ではなく目的化してしまっているがために、知識の強制的詰め込みが至上命題となっている感がある。それが社会の強迫的雰囲気、強迫的競争につながっているように思う。自分の存在の意味をとおして深く知ることへ畏敬の念を抱くことが人生を豊かに生き抜くために大切なことではないだろうか。

2004年