働かないという生き方

 この病気になって、一番悩むのは仕事のことではないだろうか。仕事をするかしないか。健常者の場合、こんな選択の余地はないだろうが、私たち精神障害者にとってみればこれはたちまち選択の対象となる。頑張って働くという選択ももちろんあるが、僕はこの年、35歳になって働かないことを選択した。選択するというより、働かないと開き直るといったほうがよいか。働かないということは他人からいい評価を受けるはずがないし、自分でもこんなんではダメだと鬱々と悩んでしまう。

 こんな僕でも、今まで働くことにぜんぜん挑戦しなかったわけではない。発症してから3回はトライした。しかし最初の一回は再発、あとの二回は鬱で退職。退職してダメな人間だと思う一方で正直言ってホッとする気持ちもあった。このホッとした気持ち、僕は元来怠け者なのではなかろうか。いやそんなことはない、しょうがないんだ、僕は怠け者なんかじゃない。そう思い込みたいので、自分は怠け者ではないんだということを仕事をしていないこの状態で主張するのに自分なりの考えを構築することが必要となってくる。そもそもこんな考えを構築しようと試みるだけでも自分に対する背信行為ではないのかと思うのだが、このことをずいぶん長い間考えてきた。これからも悩み続けなければならないのだろうが、ここで僕の今の時点での持論を展開しようと思う。

 まず経験から。この病気を発症してうまく再発せずに就労されている人をめったに見かけない。再就労して、すごいなぁ、がんばっているなぁ、と思っていた人が入院して退行していく様子を見ていると、果たして就労するということの妥当性が疑われる。ときには、うまく就労している人も見かけるがパーセンテージは低い。「あなたの就労成功率は○○パーセントです。やってみますか」と問われて、やってみる人は本当に勇気のある人だと思う。しかし、失敗する可能性が高いのなら再発を回避するために仕事をしないことを選択するのが賢明ではないだろうか。確かにこの賢明という言葉の影にはずるいのではなかろうかという思いが付きまとうがそれについては十分悩む必要があると思う。

次に、この病気を発症した者が仕事をすることを選択しなくても後ろめたさを感じなくていいのだ、ということを正面切ってここから話しようと思う。そもそもこの統合失調症という病気は人が進化する上での種の多様性にとても寄与しているということである。統合失調症は遺伝的環境的要因により1%の割合で発症し、ドーパミンの過剰により脳の働きが活性化されすぎて起こるものだとの説が有効であるが、必然的にその家系には学術的、芸術的に優れたものが多く出現することも知られているのも事実だし、このことは種の多様性、遺伝子の多様性を保つことに寄与するだけではなく、人類の精神的進化にも大きな役割を果たしていると言えるのではないだろうか。つまり健常者の社会を維持していく上で統合失調症の存在が必要なのである。こう考えると、統合失調症を発症したものは、ある意味において、図らずも充分人生の責務を果たしていると言えるのではないか。その統合失調症を発症した当事者が仕事をすることで再発し退行する可能性があるということなら、仕事をしないことを後ろめたく感じることはない。公的年金や生活保護の制度を利用するのにどこか後ろめたいものを感じるが、こんなものは感じる必要がないのではないか。人類の正常な営みに貢献しているわれわれは社会で十分に守られる必要がある。仕事をする意欲がなかなかでない、またはその意欲を持続できないから、もう生きていてもしょうがない死んだほうがましだなどと考える当事者は多いと思う。または、仕事をしようしようと思っていてもなかなか現実に事が運ばないことで自分のことを惨めに思う人も多いと思う。ここは、思い切って仕事をしない生き方を開き直って主張してもいいのではないか。そのほうが、人間関係が苦手な私たちが人間関係に悩みながら仕事をして卑屈になっていくよりも、よりよい自己実現、自己同一性の獲得につながるのではないかと思う。

 ただ、よりよい自己実現、自己同一性の獲得と言ったが、こういったものは仕事をしていないとなかなか容易に得られるものではない。しかし、仕事をすることで再発する危険性がある私たちは仕事をしないなりに、遠回りしてでもよりよい自己実現、自己同一性の獲得のそばまでいくことができるのではなかろうか。もちろん、こういったものを獲得するにはある程度何がしかの役割、趣味、周りへの説明が必要になってくる。

 まず役割についてだが、家庭の中で自分にできる役割をいくつか持っておくのがいいと思う。僕の場合は料理と洗い物、洗濯、掃除をしている。仕事をしないということを選択するとどうしてもあまりにもストレスから遠ざかる。僕はある程度自分に負荷をかけることが寛解状態の維持につながると信じている。どうしてもしんどい時はあるがそういうときを除いて積極的に自分にできる役割は果たしていく。また家庭内だと一般社会に比べて人間関係について悩む程度が少ないので、意外と集中して家事のことはできるのではないだろうか。

 また、僕はこの病気になってデイケアを利用しているが、ここでも自分の役割を少しだけでも持っておくことでいい状態を保てるのではないかと思う。いま僕は、デイケアではNPO法人の事務や喫茶の計算、そしてデイケア新聞の作成にかかわっている。本当にわずかな仕事量だがそれぞれの仕事を終えたときはちょっとした満足感をおぼえる。

 次に趣味についてだが、仕事をしないとなるとどうしても時間をもてあます。そのもてあます時間は趣味にまわすとやはりいい。なかなか病状が重いといろいろなことに興味がもてない状態になるが、それでも病状がよくなると何か趣味を見つけてそれに向けて自分のエネルギーを費やすのがいい。ただ趣味とはいっても、賭け事にお金を使わないほうがいいと思う。そもそも仕事をしないことを選択したのだから、自分の生活レベルに照らし合わせるとそんな余裕はないと思う。お金のかからない趣味を持ち、なおかつ自分の感性を高めていきたいものだ。

 そして、周りへの説明だが、これが一番大変だ。家族にも説明するのに苦労するのだから一般社会にたいして説明していくのはとても困難だと思う。ましてや僕は仕事をしないことを選択したのだ、ということを正面切って説明するのはやはり腰が引ける。説明する、しないはともかくとして考え方だけは持っておいたほうがいいのではないだろうか。どのように病気や自分の立場について周りに説明するかだが、人間関係における脆弱性、再発防止、種への貢献、どのように自分の自己実現を図るか、自分の生活をどのように維持していくか、といったところを説明できた上で自分の役割を少しでも持つことだと思う。

 以上、役割、趣味、周りへの説明は仕事をしないという生き方をするうえで大事だと思う。しかし、仕事をしないということは生活のレベルを下げざるを得ない。吾唯足知(吾れただ足るを知る)ためにも、デイケアや地域生活支援センター、その他社会資源を有効に活用することで少しは吾唯足知に近づけるのではないだろうか。

 一句、
  闇に置く我の位置あり月仰ぐ


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